第30話  「六道輪廻」と「六度行(ろくどぎょう)」の話

京都や東京の下町に行くと、六地蔵と言う地名をよく見かけます。京都では小野篁(おののたかむら)が平安時代に地蔵堂を造立(ぞうりゅう)し地蔵菩薩を安置してから、各地に地蔵堂が建てられ、その後後白河法皇(ごしらかわほうおう)が平清盛(たいらのきよもり)に命じて京都の六カ所に六角堂を建て地蔵菩薩を安置しました。

東京では、江戸時代に江戸の六カ所の出入り口に厄除けと災難除けのために地蔵菩薩を安置しました。一番目は品川、二番目は浅草、三番目は新宿、四番目は巣鴨、五番目は江東区の白河、六番目は、現存せず江東区富岡八幡に有ったようです。その謂われ(いわれ)は、地蔵菩薩に病気平癒を祈願したところ病気が治り、そこで京都の六地蔵に倣って(ならって)江戸でも六地蔵の造立を呼びかけたところ、七万二千人を越える寄進者があり、江戸の六カ所に厄除け・病気平癒・心願成就・子宝成就・子育て等々の祈りを込めて造立されました。何時しかこの六地蔵を回ると「六道輪廻」から解放されると言い伝えが広がり「六度行(ろくどぎょう)」参りが盛んに行われるようになりました。

現在のお地蔵さんと言えば中高年の銀座である、巣鴨のとげぬき地蔵はあまりにも有名です。

六地蔵とは地蔵菩薩が六変化することです。人間が持っている六つの禍(わざわい)の心、それは地獄の心、餓鬼の心、畜生の心、修羅の心、迷いの人間の心、驕り(おごり)高ぶる心等が、輪廻(りんね)する事を「六道輪廻」と言います。その「六道輪廻」の迷いの道、地獄道、餓鬼道、畜生道修羅道、人間道、天上道の迷いの道から救って下さるのが六地蔵菩薩なのです。「六度行」とは、布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)の六つの行の事で、それを実践する事なのです。

山に登る時「六道輪廻」を懺悔(さんげ)するために「六根清浄」と唱えるのです。

参照。検索、阿羅耶識院HP「仏の話」第四話「六波羅蜜」


吉祥寺・昇華山阿羅耶識院本堂の
京都・奈良の名刹寺院の仏像(写仏)三十八体の一体
京都醍醐寺文殊菩薩
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第32話 「七度契って(ちぎって)親子となり、三度結びて(むすびて)兄弟と生まる」の話。

「七度契りて(ちぎりて)親子となり、三度結び(むすび)て兄弟と生まる」の意味は「親子・兄弟の縁は何代も遠く前世からの深い因縁によって成り立っている」と訳されています。

仏教では、「因縁果報(いんねんかほう)の道理によって、親子は七世の生まれ変わりの中で様々な形で契りを結ぶ」と言われています。「兄弟は前世から三度にわたって縁を結ぶ」と言われ、決して偶然に親子兄弟になったわけではないのです。

仏教では、親子兄弟は前世、過去世(かこせ)にわたり親となり子となり兄弟になり、ある時は睦み(むつみ)、ある過去世では憎しみ、ある前世では助け合い、慈しみ(いつくしみ)そして慕い(したい)死が互いを分けるまで、親子兄弟であったのです。

仏教では、「この「因縁果報」の道理を変える事が出来ない」と説かれています。

最近の現世では、前世など知るわけもなく、場合によっては「勝手に産んだのだ」とか、「貴方の子供などになりたくなかった」とか、「お前なんか産みたくなかった」なんて言う人達が多くなりました。仏教では「七度契りて親子となり、三度結びて兄弟と生まる」の様に変える事が出来ません。しかし祈りによっては、出逢いかたが違ってくる言われています。

昭和十年代までのお父さんお母さんは何人もの子供を育て立派に大人にしました。子供は親の言う事をよく聞きました。前世・過去世の親子も同じでした。

今時のお母さんは、たった一人の子供で育児ノイローゼになる人が多くいます。いまの親子も七世の契りで親子になったのです。

来世にはまた親子兄弟になるのに、諍い(いさかい)ばかりしている親子兄弟。前世に相当憎しみあい、また前世で出逢ってしまったのかも・・・


吉祥寺・昇華山阿羅耶識院本堂の
御本尊の脇侍
身延山久遠寺本堂の愛染明王像の写仏
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第31話 「地獄極楽はこの世にあり」の話、その二。

「地獄極楽はこの世にあり」と言う諺(ことわざ)があります。その意味は「善行(ぜんぎょう)も悪行(あくぎょう)も因果応報(いんがおうほう)は、死後に行く地獄・極楽の結末を待たずとも、この世で眼の前にはっきり現れる」と訳されています。

お釈迦様に向かって弟子が「人間は死んだら何処(どこ)に行くのですか」と質問したところ、お釈迦様は「人間は死ぬのではなく他の場所に生まれ変わる」と言われ、生まれ変わる場所をも示されたそうです。その中には地獄界の様々な場所や生まれ変わるものまで示されたそうです。それは様々なお経になって示されています。そして様々なお経には死後の世界が書かれたお経もあります。

「地蔵経」や「十王讃歎鈔(じゅうおうさんたんしょう)」や「十三仏のお経」など、人間の死後の世界を説かれたお経は数々あります。

この世には地獄も極楽もあるのです。金持ちにも貧乏人にも地獄も極楽もあります。金持ちにも貧乏人にも地獄も極楽もあります。暮らし方によっては大金持ちでも心の卑しい(いやしい)人が途端(とたん)の苦しみに出逢った時には、その世界は地獄であり、貧乏人でも生き甲斐(がい)を持って生きて居る人はこの世は極楽なのです。

仏教では、「この世には四苦八苦がある」と説かれています。

「四苦八苦」は、「生・老・病・死の四つの苦と、そして愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)の四つの苦と、併せて八つの苦」です。人間はこの八つの苦から逃れる事が出来ないと説かれています。この世で「四苦八苦」から逃れられないのですから、せめてくよくよやイライラせずに、カリカリせずに明るく生きれば、この世の地獄から逃れられて、この世の極楽に出会えると思います。


吉祥寺・昇華山阿羅耶識院本堂の
京都・奈良の名刹寺院の仏像(写仏)三十八体の一体
京都醍醐寺普賢延命菩薩
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第29話 「パワースポット」の話。

最近十年前頃から「パワースポット」と言われる場所や物が世間で流行りだし、日本中に「パワースポット」や「パワーストーン(石)」が流行しました。昔から「パワースポット」は存在しました。ことに京都は平安時代から、有名神社や名刹寺院があり、そこには必ず「パワースポット」がありました。

最近、若い女性が行きたがる京都の「パワースポット」は、縁結びの神社やお寺で、清水寺の「地主神社(じしゅじんじゃ)」や悪縁を切り良縁を得る事で有名な「安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)」は有名です。

厄除けでは京都の西北にある火除けと厄除けの神社「愛宕神社(あたごじんじゃ)」や厄災除けの「大将軍神社(たいしょうぐんじんじゃ)」があり、京都の中央に鎮座する「八坂神社(やさかじんじゃ)」は、厄災・疫病(えきびょう)・厄払いの神様で有名です。さらに京都の鬼門にある「比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)」は、厄除けの元三大師(がんざんだいし)をはじめ様々な守り神が鎮座しています。

日本各地には、縁結び厄除け招福の「パワースポット」のお寺や神社があります。

たとえば縁結びの「出雲大社(いずもたいしゃ)」や伊勢の「猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)」や、安芸の宮島の「厳島神社(いつくしまじんじゃ)」、大阪の「住吉大社(すみよしたいしゃ)」、鎌倉の「鶴岡八幡宮」や浅草の「浅草寺(せんそうじ)」等々はそれぞれに「パワースポット」で外人観光客のほうが日本の「パワースポット」を知っていて、観光という名のお参りに来ます。

最近の中高年の人達は「信仰心」が無く、「パワースポット」も知らないために、不安な毎日を送っています。「イワシの頭も信心から」という喩えがあります。くよくよ毎日を過ごすより、御自分の近くにある「パワースポット」に行って、厄払いをなさって下さい。

吉祥寺のお寺阿羅耶識院にも「パワースポット」があります。

吉祥寺・昇華山阿羅耶識院本堂の
京都・奈良の名刹寺院の仏像(写仏)三十八体の一体
京都大原三千院の観世音菩薩像
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第28話 「勿体無い(もったいない)」と「有難い」の話。

「勿体無い」と、何気なく言っている人が多いようです。 

誰でも母親から必ず「もったいない」と何度か叱られた事があると思います。

「勿体無い」とは、仏の言葉で、「持つ足りない」がなまって、「もったいない」になったようです。その意味は「物を持っている事を粗末にし、物が無くなった時に粗末にした事を悔やむ」と言うことです。その「勿体無い」が、いつのまにか「畏れ多い(おそれおおい)」の意味に変わったり、時代によっては「かたじけない」に変わってしまったようです。

「有難い」も何時の間にか「ありがとう」に変わってしまいました。「有難い」の意味は、「存在が稀(まれ)である」とか「またとなく尊い」です。これらは現在では通用しない言葉です。

最近、疎(うと)まれている言葉は「謙譲(けんじょう)の美徳」や「質素倹約(しっそけんやく)」や「廃物利用」や「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす」等々です。

最近の大学出の若者は「楽な就職をしたい」そして「上司の意見は聞きたくない」等で、「何事にも我慢が出来ない」のです。

主婦は「生魚や生肉を捌けない」そして「断捨離(だんしゃり)が大好き」さらに「家庭よりもバイトが好き」です。

独身者の約半数は「結婚は自由を失うからしたくない」ようです。「勿体無い」や「有難い」は今の世の中には不必要な言葉かもしれません。昭和二十年代の「親の意見と茄子(なす)の花は千に一つも無駄は無い」は、死語になってしまったようです。

吉祥寺・昇華山阿羅耶識院本堂の
京都・奈良の名刹寺院の仏像(写仏)三十八体の一体
京都・教王護国寺東寺帝釈天
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第27話 お地蔵さんと地蔵盆に思うこと。

昭和四十年代にお地蔵さんブームが起きました。何故ならば子供が言う事を聞かないのは、親が犯してしまった水子の霊の祟りだといわれ、祟りを畏れ(おそれ)て、お寺に水子地蔵を寄進しました。それがきっかけで石材屋(せきざいや)さんとお寺が水子地蔵を大量に製作をして、水子を造ってしまった母親の罪の意識をあおり、水子地蔵墓地まであらわれ、地蔵ブームが始まったのです。ただ親子の亀裂(きれつ)を畏れて水子地蔵を寄進したのでは、本当の水子供養にはならない為、子供はますます親の言う事は聞きません。ひどい親になると罪の意識を癒す為に、何十体もの水子地蔵を寄進する始末です。

水子への罪の意識が消えた時、お寺には雨ざらしになった水子地蔵が寂しそうに何百体もたたずんでいました。

お地蔵さんの本当のお役目は人間の卑(いや)しい心や、貪(むさぼ)りの心や、怠け心や、怒りの心を取り除いて下さる、有難い仏様なのです。

仏教では人間の死後三十五日目に逢う閻魔大王(えんまだいおう)の本当の姿が地蔵菩薩なのです。

地蔵菩薩の話はとても長くなるのでまたの機会にお話ししますが、現代の複雑な世の中では悩んでも悩みきれないほどの苦労を背負って生きていかなければならない時に、ふと街角で出会える仏様が、地蔵菩薩なのです。お地蔵さんは、お釈迦様の滅後(めつご)、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が五十六億七千万年後に弥勒如来になって現れ、世の悩める人達を救って下さるまでの間を、その代りをしてくださる有難い仏様なのです。八月は地蔵盆の月です。「地蔵盆」は懺悔盆(ざんげぼん)とも呼ばれ、日頃犯した様々な罪、知って犯した罪、知らずに犯した罪、殺生の罪等、を懺悔する為の供養でもあるのです。懺悔の供養には「畜虫草木(ちくちゅうそうもく)一切霊」の供養とそして「処縁(しょえん)一切霊」の供養などがあります。

吉祥寺・昇華山阿羅耶識院本堂の
京都・奈良の名刹寺院の仏像(写仏)三十八体の一体
京都大原三千院勢至菩薩
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第26話 日本のお祭りと盆踊りが無くなってしまう?。

毎年夏は、日本各地でお祭りや盆踊りが盛んに行われています。

殊に八月は先祖を供養する盆踊りが行われています。

霊魂を癒(いや)し敬(うやま)う行事は世界各国で行われていますが、殊に仏教国では慰霊(いれい)の為の行事が盛んに行われています。

日本ではお祭りや踊りが行われ、北は青森のねぶた祭、秋田では竿燈(かんとう)まつり、岩手盛岡さんさ踊り山形花笠まつり、宮城仙台七夕まつり、大阪では八尾の河内音頭(かわちおんど)の盆踊り、京都では祇園祭(ぎおんまつり)、五山の送り火、岐阜は郡上八幡(ぐじょうはちまん)の盆踊り、北陸では富山のおわら風の盆、南では高知のよさこい祭り、徳島の阿波踊り(あわおどり)、博多祇園山笠(はかたぎおんやまがさ)、長崎の精霊流し(しょうりょうながし)等々と先祖を供養する行事が数多く行われています。これらはほとんどが先祖の霊を慰(なぐさ)めるもので、亡くなった人と生きている人の架け橋なのです。

その大切なお祭りや盆踊りの担い手(にないて)が少なくなり、中止してしまった無形文化財も数多くあるのです。

ことに大都市では花火大会はあっても、大衆参加の夏祭りや盆踊りなどは、ボランティアが少なくなり、若者が敬遠して寂しい祭になりつつあります。ましてや昭和四十年代まではお盆に街角で見られたお盆の迎え火などは、ほとんど見られなくなりました。

日本には四季を彩る美しい歳時記がありますが、これも失われつつあるのです。

日本人が日本人の美徳を失った時、どこかの国に日本が占領され、日本と言う国が無くならなければよいのですが。

吉祥寺・昇華山阿羅耶識院本堂の
京都・奈良の名刹寺院の仏像(写仏)三十八体の一体
奈良・新薬師寺の薬師十二神将
子年生まれの神様
宮毘羅(くびら)大将
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